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「La Motocyclette」

 夫は小学校で歴史を教えている。生徒達は彼を嫌っているわけではないが、彼をいたぶることを止めるくらいなら、ぶたれた方がましだと思うくらい馬鹿にしている、そんな夫との生活で、彼女にとってハーレーだけが、そしてなぜそれを手に入れたかだけが大切だった。彼女が彼女であったことを思い出すために、かつての恋人のいた場所へ走り出す。
  フランスから国境を越えてドイツのハイデルベルグまで、いま何を感じ思い出し、何を求めて、過去の記憶をたどって、どの過去が重要だったのか、何がいま必要なのかを求めて走る。
  素肌に何もつけず、直にレザースーツをまとい、片田舎の朝靄の中、まだ湿ったアスファルトの直線を150kmで飛ばす。このハーレーが彼女の回想の糸をたぐる唯一の道具であり、自己証明のための存在でもあった。またハーレーは忘我の彼方へ彼女を運ぶ貴重なものであり、それゆえにシングルシートでなければならなかった。
  この小説は、1963年フランスで出版された。マンディアルグという作家はシュールレアリストときわめて近い地点に位置しているといわれている。幻想が現実の一部と見なすこの表現スタイルが、この「オートバイ」という小説の中、随所にあらわれている。この小説に出てくる黒いハーレーダビッドソンは重量級オートバイの代名詞であり、これほどオートバイが主要な役割を担っているのはめずらしい。そしてこのハーレーに対する表現は特別であり、はかに見られない。たとえば「オートバイはいつも彼女の目に、古い偉大な葬儀馬の末裔のように思えるのだった」「ピストルかそれとも騎兵銃の引き金のようなカチッという音を立てて、シートは自動的に持ち上がった」「テーブルクロスの下で恋人の足を軽く踏みつけるような調子で、少しアクセルをもどして、四速に入れる」など……。
  ハーレーを隠喩法によってさらに主要な立場をとらせて行く。シリンダの中で始めはゆっくりと、そして序々に燃焼は加速され、ピストンが力強く上下にスラストする。その動きが激しく勢いが重く鋭いほど、意識は法悦の空間をさまよう。ハーレーの不等間隔のビートがここで必要だったのだろう。高度で精緻な技術に裏打ちされた規則正しいマルチシリンダは相応しくない。人を燃え上がらせるために、高度なメカニズムはさほど必要ない。論理的整合性もいらない。人にとって、途方もない力を生み出すものに跨ってそれを御すること。それは乗馬とオートバイにのみ許された快楽であり特権だとこの小説は語っているように思う。
  それにしてもフランス人は良くわからない。第二次世界大戦でアメリカが同盟国となり参戦したことでフランスがパリが救われたというのに、戦後のフランスのアメリカ嫌いは徹底していた。1960年代は特にその傾向が強かった。その頃、パリに行ったことがあった。もちろんフランス語はほとんど話せなかったが、私のかたことの英語が、英語自体が無視された。それなのに、なぜフランスはファセルベガを作ったのか。パコダルーフのメルセデス280SLをもっと上品に高級にしたボディにクライスラーV8をなぜ載せたのか。当時アメリカ経済が上昇気流に乗ってる時期で、アメリカが上顧客だったとは言え、私の体験したフランス人気質から伺いしれない。そしてマンディアルがこの小説になぜハーレーを登場させたのか。モトグッチでも良いしBMWでも良かったはずだ。そのハーレーは主人公にとって、まったく男として扱われている。シングルシートのハーレーは、人と一緒に乗ることを拒絶するためであり、自分のためだけの存在として位置付けている。
  この小説をもとに1968年に制作された映画が日本題名「あの胸にもう一度」で、日本語スーパー入りのビデオも発売されていたが、すでに絶版となっていた。 今回、DVD化されて発売される。 この本とビデオについて特記すべきは、原書の内容と映像がほとんど一致していることだ。映画化されると原文がプロデューサーやディレクターによってかなり変更され、強調されるべき点が変わったり別のストーリー展開になることがよくある。この物語に関しては、小説を先に読み、DVDを見て楽しめる数少ないものといえる。
  現代人の日常生活の奥にひそむ原始的な狂気のエネルギーを、愛と詩的幻想が織りなす耽美な世界をみごとに形象化しているこんな本はもう少ない。オートバイに対する我々とは違った感性は、イノベーションの嵐吹き荒れる真っ只中にいる我々に、何か置き去りにしたものを見つけさせてくれる。